Junior Chamber Japan, Fisheries Division  ~大きな志を持って未来の日本の海を共に考えよう~

水産部会のおいたち

水産部会の生い立ち

【1965年9月24日 横浜にて産声を上げる】
【誕生前夜、そして設立へ】 日本青年会議所水産部会(=JC水産部会)は、社団法人日本青年会議所(日本JC)の業種別部会として、1965年9月24日、横浜で産声を上げた。この日は日本JCの全国大会が横浜で開催され、全国のJCマン4300人が参加した。参加者の中には、長崎の古野氏、福岡の伊藤氏、神戸の藤堂氏、富山の追分氏、下関の石原氏(故人)、村上氏、稚内の瀬戸氏、波間氏、豊橋の佐藤氏をはじめとする設立時の発起人メンバーの顔があった。 この全国大会の夜。参加した水産関係のメンバーが集まり盃を交わしながら、水産業の未来に夢を馳せた。
この横浜での誕生の夜を前にして、水産部会の誕生に向けた布石となるエピソードがあった。  横浜の夜から遡ること3年の1962年。水産部会の誕生に向けたストーリーが始まる。 当時の日本JC会頭の古市実氏が、JC世界会議に出席し帰国後、国際経済交流委員会を組織し韓国、台湾、沖縄(当時は米国の占領下)との経済交流事業を提唱した。その後、日本JCの歴代会頭に引き継がれ、1965年になって、ようやく古市氏の提唱した国際経済交流委員会が日本JCに組織され、古市氏の構想が実現した。初代委員長は東氏(神戸)。そして副委員長に就任したのが、古野氏だった。古野氏は翌年1966年に委員長に就任する。

国際経済交流委員会は、「アジアは一つ、世界は一つ」をテーマに相互理解を深める交流事業を活発に行うなど、一気に事業が進んでいく。古野氏のアイデアや行動力が国際経済事業で大いに発揮された。と同時に、この時の委員会のメンバーには、後に水産部会誕生の主要なメンバーになる神戸の藤堂氏、福岡の来栖氏が名を連ねていた。

この国際経済交流活動を通して、若手水産人が互いに友好を深めていくことになり、この水産人交流の輪の拡大が1965年の横浜の夜へとつながっていくことになる。

【1966年 石原昭ニ部会長(下関JC)】 ~ 【1967年 石原昭ニ部会長(下関JC)】
1966年総会は下関の山陽ホテル(1967年総会は下関の山陽ホテル)

【輝く未来の海へ出航の年】  横浜の夜を経て、日本青年会議所に提出する定款の作成など、水産部会の本格的活動に向けて準備が進められる。定款案作成は、古野氏が担当した。定款案作成には実は隠れた功労者がいた。後日談として古野氏が披露した話しによると、この定款案を草案したのは、古野氏の経営する古野電気㈱の当時の社長室長、篠原氏だったようだ。

定款作成を進める一方で、初代部会長の選任も大きな仕事だった。古野氏は、この年(1965年)の日本青年会議所「最優秀Jaycee賞」を個人として受賞。また水産部会の実質的な母体としての役割を果たした国際経済交流委員会での古野氏の活躍からも、「初代部会長は古野氏に」と、古野氏を推挙する声が設立メンバーの間で強かった。  こうした声に対して、古野氏は「部会長は漁業会社のオーナーが適任」であることを主張し、当時、下関を基地にして以西底引き網漁業を行っていた協栄水産の石原昭二氏を強く推した。石原氏は国際経済交流委員会とも関わりが深く、特に日本JCをはじめとするさまざまな韓国との経済・文化交流事業を通して、古野氏とは長年の朋友だったいうことも大きかった。

設立時のメンバーであり、1973年の第8代部会長を務めた稚内の大菅雄一郎氏は、「設立に力を入れられ、私達がたいへんお世話になったのが古野さんで、石原さん達と力を合わせて設立された部会だと強く記憶しています」と、石原氏と古野氏の二人三脚で水産部会の土台つくりが進められたことを鮮明に覚えている。  定款の作成を終え日本JCに提出、初代部会長に石原氏が決定し、横浜の夜から約3ヶ月後の1966年の年明け早々、JC水産部会は日本青年会議所の正式な業種別部会としてスタートした。

【杯を交わすことこそが、部会活動!?】  この初年度の事業計画ならびに設立時の会員メンバー等を記述した資料は残されていない。というよりも、メンバー間の交流自体が事業になっていたようだ。全国各地の港が水揚げに沸く時代であり、水揚げ量が前年を上回る右肩上がりで、「過去最高の水揚げ」にお祝いがてらに各地で交流会の名の下で、杯を交わすことは度々だった。 各メンバーともJC事業としてはロムが主体だったようで、「ロムでJC事業を、水産部会では飲む」という状況が続いた。昼は勉強会と情報交換、そして夜は徹底的に飲み、遊ぶという水産部会の伝統は、確実に今に受け継がれているが、設立時は、まさに海の男としての荒々しさが今以上に強く漂っていた。  当時のメンバーの記憶によると、初代、2代の部会長を務めた石原氏の地元下関で、総会を開いたようで、場所は下関市内の山陽ホテルだった。当時のメンバーは漁業会社、漁網をはじめとする漁業関連の資材・装備・機器の会社が多く、水産加工業、水産流通業の企業関係者は、まだ少なかったようで、漁業生産を主体に総勢30人を越える所帯だった。  水産部会が本格スタートした1966年。

漁業の国際化が進展していく中で、水産部会メンバーがいかに「国際的」だったかを知る逸話がある。この年、古野氏は日本JCの国際経済交流委員会の委員長に就いていた。この委員会で韓国と音楽を通して文化交流を行うことを計画、古野氏自らもこの年、韓国を幾度も訪れたがこの文化交流事業で訪韓中、部会長の石原氏の会社の漁船が韓国に拿捕されるというニュースが飛び込んできた。文化交流事業の訪韓団には古野氏をはじめ何人かの水産部会のメンバーがいたことから、韓国側との打ち合わせを「日本の水産関係者が、拿捕に対する抗議にきた」と誤解され、日本JC本部には、「水産部会のメンバーが韓国で逮捕された」との誤報が伝わるまでに発展した。  もちろん、誤解であること、また逮捕が誤報であることはすぐに解り笑い話のような話だが、当時の韓国と日本と関係、さらに当時から日本JCでは水産部会のメンバーは「国際派」として認知されていたということを知るうえで興味深い逸話だ。

【1968年 堀埜豊治部会長(富山JC)】
札幌部会開催(inわかまつ 1968/10/4)

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